未来を「当てる」ことを目的としていない
「気学は占いではありません」
と、私も妻もずっとそう言い続けてきました。
ただ、そうは言っても、じゃあ「占い」とはなんぞや?気学との違いってなに?と、改めて問い質すと、明確な答えに苦慮します。
気学のことを「占術」として紹介しているところはたくさんあって、むしろそっちの方がスタンダードです。ではなぜ私たちは「占いではない」と言い続けているのか?
1つは、私たちの先生からの教え「気学は哲学です」というのがあります。最初にその言葉を聞いたから、気学を勉強してみようという気になりました。だから私たちは勉強当初から占いを習っているとは思っておらずに今日まできました。
だから「未来を占って欲しい」と言われても、占う術を知りません。
もう1つは、「当てる」という気がありません。
占う術を知らないとは言いましたが、世の中の動向をあらかじめ予測したりはします。いついつにはこういう事に注意とか、こういうものが流行るとかなどは、気学を使えば予測できます。おそらく株価の動向も予想は可能でしょう。(それはちょっと興味がある)
各個人の動向についても同じです。今年(今月)はこういうことに注意とか、〇〇をするならいつが良いとか。たとえば結婚や就職(転職)の時期などをアドバイスしたりしますし、人生におけるペース配分(頑張り時とお休み時)などもご指導します。
そういった中で、後々に「言ってた通りになりました」と言われることもあります。そういって頂くことはとてもありがたいですが、でもそこに関しては、あまりその予測精度には重きをおいておりません。
場合によっては予測が外れてほしいこともあります。たとえば健康面なんかは、毎年(毎月)注意する病気や怪我がありますが、そこは当たらずに健康でいてほしいと思いますし、尅気方位に行ってしまった場合でも、その影響が少なくあってほしいと願います。
当たる当たらないなんか、私としてはどうでもいいです。
ただ「幸福」になってくれることだけを考えてアドバイスしております。
未来予測が当たったから幸せになるわけではありません。
「幸せになるには今なにをすべきか?」
を考えて実行し続けた先に、幸せは訪れます。
どんなに祐気を採り続けても、不幸な事態には見舞われます。たとえば「死別」は、いくら祐気があっても絶対に避けられません。
その時期を予測する(当てる)ことに、何の意味があるのでしょうか?
私が重要視しているのは、そうなった時に「どうすればよいのか」です。不幸に対して予めの心構えなんか必要ありません。その時々で適切な判断をすればよいです。
「未来は自分でつくる」ものです。
気学はその手伝いをするに過ぎません。