こんなところに住んでます
HONDA S660(6MT)を試乗してみた -S660 Test Drive- - YouTube
HONDAの新しい車の動画を観ていたら、そこに映る景色がうちの近所に似てるなあと思って。そしたらうちの近所だった。びっくり。うちも映ってます。
こちらに移住して10ヶ月が経ちました。こちらの生活には慣れましたが、でもあまりに急なことだったので、そのこと自体がまだ受け入れられてないというか、消化できていないというか、夢の中にいるような。移住したという現実味がいまだありません。
でもこうして寝室からの景色を振り返ると、たしかにここで10ヶ月を過ごしたんだなあと、あらためて実感します。
いまの時季はツバメが元気に飛び回り、カエルの合唱が賑やかです。とてものどかで癒されます。
岐路
この記事(運の強さ - 八祐会 ブログ)を書いた翌日、人生の大きな岐路が訪れた。それは、
引っ越しを余儀なくされました。
余儀なくという言葉には若干の語弊があるか。引っ越しをしなくても済む選択肢は一応は残されていた。だがそれは、あまりよい考えではない。詳しくは書かないが、未来と自尊心とお金が無駄になるというのがその理由だ。
妻と暮らしたこの家を離れる悔しさは筆舌に尽くしがたいが、思いきって執着を捨て去り新天地で再出発したほうが未来が明るくなるのは明白だった。しかも話が色々と進展して、これまで先送りにしていたことが一挙に解決に向かう。今はまだ詳しく書けないが、とにかく、一石に二鳥も三鳥も四鳥も…という話なのである。
ああ、これが祐気の力か。
気学をやりはじめると、祐気って、魔法のようになんでも望みが叶うものだと思ってしまう。でもいくら祐気を採っても魔法は現れない。そのことに絶望して気学をやめてしまう人は多いのだろう。
たしかに祐気は魔法ではない。奇跡なんて起きない。でも、祐気は確実に自分とその周りを幸せにする。それは自分でも気づかぬくらい小さな歩みだが、確実に、一歩ずつ、前進してる。
そして時々、その効果が幾重にも重複して一気に現れることがある。
それが、今の私たち。
大きな岐路に立たされた時、どちらに進むか。
気学を知り、祐気を蓄保すると、その選択を決して誤らない。
必ず正しい軌へと導かれる。
八雲の国へ、いざ。
未来を「当てる」ことを目的としていない
「気学は占いではありません」
と、私も妻もずっとそう言い続けてきました。
ただ、そうは言っても、じゃあ「占い」とはなんぞや?気学との違いってなに?と、改めて問い質すと、明確な答えに苦慮します。
気学のことを「占術」として紹介しているところはたくさんあって、むしろそっちの方がスタンダードです。ではなぜ私たちは「占いではない」と言い続けているのか?
1つは、私たちの先生からの教え「気学は哲学です」というのがあります。最初にその言葉を聞いたから、気学を勉強してみようという気になりました。だから私たちは勉強当初から占いを習っているとは思っておらずに今日まできました。
だから「未来を占って欲しい」と言われても、占う術を知りません。
もう1つは、「当てる」という気がありません。
占う術を知らないとは言いましたが、世の中の動向をあらかじめ予測したりはします。いついつにはこういう事に注意とか、こういうものが流行るとかなどは、気学を使えば予測できます。おそらく株価の動向も予想は可能でしょう。(それはちょっと興味がある)
各個人の動向についても同じです。今年(今月)はこういうことに注意とか、〇〇をするならいつが良いとか。たとえば結婚や就職(転職)の時期などをアドバイスしたりしますし、人生におけるペース配分(頑張り時とお休み時)などもご指導します。
そういった中で、後々に「言ってた通りになりました」と言われることもあります。そういって頂くことはとてもありがたいですが、でもそこに関しては、あまりその予測精度には重きをおいておりません。
場合によっては予測が外れてほしいこともあります。たとえば健康面なんかは、毎年(毎月)注意する病気や怪我がありますが、そこは当たらずに健康でいてほしいと思いますし、尅気方位に行ってしまった場合でも、その影響が少なくあってほしいと願います。
当たる当たらないなんか、私としてはどうでもいいです。
ただ「幸福」になってくれることだけを考えてアドバイスしております。
未来予測が当たったから幸せになるわけではありません。
「幸せになるには今なにをすべきか?」
を考えて実行し続けた先に、幸せは訪れます。
どんなに祐気を採り続けても、不幸な事態には見舞われます。たとえば「死別」は、いくら祐気があっても絶対に避けられません。
その時期を予測する(当てる)ことに、何の意味があるのでしょうか?
私が重要視しているのは、そうなった時に「どうすればよいのか」です。不幸に対して予めの心構えなんか必要ありません。その時々で適切な判断をすればよいです。
「未来は自分でつくる」ものです。
気学はその手伝いをするに過ぎません。
勝って驕らず 負けて悔やまず
先日に行われたサッカー ワールドカップ決勝。勝利したドイツチームの選手よりも、アルゼンチンのエース、メッシ選手の様子にばかり目がいってしまった。
彼は27歳だから、また次があると言われるが、アルゼンチンが決勝に進んだのは24年ぶりなわけで、果たして彼に次のチャンスがあるかというと、非常に厳しいと思われる。
人生最大のチャンスが目の前から消えてなくなってしまった。
果たして人は、そのあとにどう振る舞えばいいのだろうか?
よく言われるのが「その悔しさをバネに」がんばれというもの。
まだその後も同じ戦いが続くのならば、その方法もアリだと思う。でももうチャンスは2度と訪れないとしたら、どうだろう。その悔しさを別の分野で活かせって?それはアドバイスとしてはあまりに乱暴でしょう。そういうことを平気で言える人は、人生を賭けた戦いをしたことが無い人です。
悔しさは、忘れてしまうのが1番です。
それじゃあ同じ失敗をくり返すかもって?
トラウマになって足かせになるよりよっぽどマシでしょ。
それに、そんな強烈な負けは、忘れたくても忘れられないって。だからせめて、足かせにならないようにしたいっしょ。
悔しさをバネに?そんな弱いバネじゃあ、また負けるよ。
好奇心や向上心など、前向きで心が躍るバネには勝てないよ。
負けたというトラウマをいかに排除させるかが、次に繋がるんだと思う。
負けたことをどうにか活かせられればと思うが、それは欲張り過ぎかも。
忘れるということでの「損切り」で納得した方が賢いように思える。負けた記憶をいつまでも残しておくのはリスキーだと思う。
ただ、忘れる方法の1つとして、思いっきり悔しがるのはアリだと思う。悔しく思うことが「飽きる」まで、とことんに悔しがって負けの記憶をデトックスさせてしまうのも1つの方法です。
一方、勝ったドイツの選手。なにやら祝勝会で南米の選手に対しての差別的な振る舞いをしたとのニュースが。あーあ、やっちまったね。
こういうことは、一生悔いて生きればいいさ。
運の強さ
「この世は、運の強いものが勝ちです」とは私たちの先生の言葉。
50年以上も気学に携わってきた先生の歴史を考えると、とてもとても重い言葉で、巷に飛び交う「開運」なんぞと同列にはできない。
では果たして「運の強さ」とは、一体どういうことなのだろうか?
運を強くする上で、気学は非常に有効な学問である。
その確信は、妻に先立たれた今もなお変わらない。なぜそう思うのかは、今の私にはまだ明確な言葉で説明することができない。
「勘」としか言いようがない。
この「勘」が当たることが、運の強さと言えるのではないだろうか。
いや、勘が当たるというよりは「外れない」といった方が正しい。スポーツの試合などで「勝てる気がする」よりも「負ける気がしない」という方が強い、そんなイメージか。私の妻の勘も、当たるというよりも外さないが適切だった。あの人の勘の鋭さは人間の領域を超えていた。
その領域に少しでも近づけるよう、私は祐気とりをし続けているのかもしれない。
人生は、選択の繰り返し。常に選択を迫られる。その選択の良し悪しが、そのまま人生の良し悪しに通じる。運がいいといわれる人は、その選択がとても上手なのだろう。あるいは、良い悪いの選択ではなく、良いと良いの選択しかないのかもしれない。
気学生活を続けていると、自ずと悪い選択という概念が無くなっていくような気がする。一見すると不幸な事態に思えるようなことでも、それは自分にとって必要な試練である、などのように。
試練を乗り越えるには「祐気」が必要なのは間違いない。
運を強くするということは、結局は自分自身を強くするということなのかもしれない。精神も肉体も、頭脳も、全部。
自分自身だけではない、自分の周りにいる人達も、強くしていく。
生きる上で欠かせないお金も強くなる。
そうして自分や環境が強化されていけば、生きていくことが楽になる。
「この世は、運の強いものが勝ち」
四苦八苦のこの世を「幸せだった」と言って旅立つことができる人が、
人生の勝ち組なのかもしれない。